怖い話「台風の夜――嵐がもたらす狂気」
絵里と晶は、嵐の夜に山奥の家に閉じ込められていた。結婚して十年、二人は都会の喧騒から逃れ、この静かな場所で新しい生活を始めようとしていた。しかし、自然は時に人間の計画を無情にも打ち砕くものだ。その夜、彼らは最悪の台風に見舞われることになった。
テレビのニュースキャスターは、過去最大級の台風が接近していると繰り返し警告していた。だが、家の中は安全だと思い込んでいた二人は、その危険を軽視していた。晶は雨戸をすべて閉め、家の中で絵里と一緒に映画を観ながら、嵐が過ぎ去るのを待つつもりだった。
しかし、嵐がピークに達した頃、外から異様な音が聞こえてきた。風の唸り声に混じって、まるで家の周りを何かが歩き回っているような、重い足音のような音がした。絵里は身を震わせ、晶に「何かがいるわ」と囁いた。晶は笑い飛ばそうとしたが、内心では不安が募っていた。
「ただの風の音だよ、気にするな」と晶は言ったが、心の中に浮かんだ疑念を拭い去ることはできなかった。彼はキッチンから懐中電灯を取り出し、家の中を一通り点検し始めた。
雨戸はしっかり閉まっており、家の中に異常はなかった。しかし、再び外から足音が聞こえてきた。それは確かに、何かが家の周りを歩き回っている音だった。絵里は窓に耳を近づけ、音の出所を探ったが、何も見えない。彼は胸の奥に潜む恐怖を無理やり押し殺し、晶の元に戻った。
「誰かが家の周りを歩いているみたいだ」と晶が言うと、絵里の顔が青ざめた。
「やっぱり…」絵里は震える声で答えた。「あれは、ただの嵐じゃない…何かがこの台風に乗ってきたのよ」
その瞬間、家の前でドアを叩く音がした。二人は恐怖に凍りつき、じっとその音に耳を傾けた。誰かがドアの外に立っている。しかし、この嵐の中、そんなはずがない。晶は懐中電灯を握りしめ、ドアに近づいた。
「誰だ?」晶が叫んだが、返事はなかった。ただ、ドアを叩く音が再び鳴り響いた。晶は心臓が激しく鼓動するのを感じながら、ドアに手を伸ばした。絵里は震える声で「開けないで」と言ったが、晶は好奇心に勝てなかった。
ドアを少しだけ開けた瞬間、嵐が家の中に吹き込んできた。風と共に何かが侵入してくるような感覚があった。晶はその場でドアを閉めようとしたが、何かが彼の腕をつかんだ。冷たく、湿った手が彼の手首に絡みつき、晶は悲鳴を上げて後ずさった。ドアを閉めることができたものの、その手の感触は消えず、彼の心に深い傷を残した。
絵里は晶の腕に巻かれた痕を見て、何も言わなかった。ただ、その目には言葉にできない恐怖が宿っていた。二人は、もう家の中が安全ではないと悟った。
外の風がますます強くなり、家全体が揺れ始めた。晶はテレビを消し、絵里と共にリビングの中央に座り込んだ。二人の周りを、何かが歩き回る音が再び響き渡った。今度は、家の中に入り込んでいるようだった。
晶と絵里は、その夜、何度も外からドアを叩く音を聞いた。時には窓ガラスに手形が浮かび上がるのを目撃したが、決して姿を捉えることはできなかった。夜が明けるまでの時間が、まるで永遠に感じられた。
そして、朝になった。嵐は過ぎ去り、外は静まり返っていた。晶と絵里は、恐る恐る家の外に出た。庭には何の痕跡もなく、嵐があったことすら信じられないほどだった。しかし、二人の心には、あの夜の恐怖が深く刻み込まれていた。
その後、絵里は夜中に目を覚ますと、いつもドアの外で何かが自分を見つめているような気がして眠れなくなった。晶もまた、あの冷たい手の感触が忘れられず、精神的に追い詰められていった。二人の関係は徐々に壊れ、やがて晶は家を出て行った。
絵里は今もあの家に住んでいるが、夜が来るたびにドアが叩かれる音を聞く。そして、その度に彼女はドアを開けてしまうのだ。晶が出て行った後も、絵里は一人で何度もその音に耐え続けている。しかし、彼女がドアを開けるたびに、何かが少しずつ彼女の魂を奪っていくのを感じている。
この物語が警告するのは、台風のような自然災害がもたらす恐怖は、単なる物理的な脅威にとどまらないということだ。時には、嵐に乗って何かがやってくることもある。それは目には見えないが、確実に存在し、人の心を蝕んでいくのだ。そして、あなたが次の嵐に遭遇した時、その何かがあなたをも襲うかもしれない。